2016年8月30日

麻疹騒動に学ぶ、集団免疫の大切さ

 2016年の夏、二つの麻疹(はしか)騒動が持ち上がりました。一つは千葉県松戸市での小流行です。7月22日からの1ヶ月間で麻疹患者10名が報告されました。年齢は0歳3名、1歳2名、4歳1名、6歳1名、15歳1名、20代1名、30代1名です。10名中9名(1歳の1名以外)は、麻疹ワクチンを接種していませんでした。患者から検出されたウイルスは、海外由来の遺伝子型で一致しています。全員、海外渡航歴がないため、市内で感染したと考えられます。発端者は発見できませんでした。ここで問題視されるのは4歳以上の5名です。ワクチンを接種していれば自ら罹ることはなく、周囲の人に感染させることもなかったはずです。もう一つは、千葉市の幕張メッセで起こった麻疹の持ち込みです。同地で開催された大規模コンサートに、麻疹を発症している19歳男性が参加していました。この男性は関西在住で、8月9日に発熱、13日に発疹を生じ、後に麻疹と診断されました。8月初旬にバリ島を旅行しており、この時に感染したと推測されます。コンサートのみならず、その前後(13〜15日)に東京や鎌倉を訪れていました。この男性は6人家族で、誰一人として麻疹ワクチンを接種しておらず、家族3人も麻疹を発症しています。

 麻疹はかつて「命さだめ」と称され、生きるか死ぬかは運しだいの疫病でした。「7歳までは神の子」という言葉もありました。乳幼児の生死は神様が握っていて人智の及ぶところではない、7歳を過ぎてやっとひと安心、という意味です。歴史の資料を紐解くと、麻疹は江戸時代に13回の大流行を起こしています。中でも1862年(明治維新の6年前)の流行は、江戸だけで24万人近い死者が出る被害をもたらしました。神仏への祈りもむなしく、一般庶民から天下の将軍まで、人々はただバタバタと倒れるのみでした。医学が進歩した平成の時代においても、麻疹に対する根本的な治療法は存在しません。麻疹に罹患すると、脳炎や重症肺炎の合併のために1000人に1人は命を落とします。亜急性硬化性全脳炎(SSPE)という、麻疹の罹患から7〜10年後に発症し数ヶ月で死に至る合併症もあります。数は少ないですが、失明の合併もあります。

 麻疹の厄介な問題点は、重症化しやすいことにとどまらず、感染力が非常に強いこともあげられます。麻疹ウイルスは、空気(飛沫核)、飛沫、接触、いずれの経路でも感染します。飛沫核は数時間にわたって空気中を漂うため、患者と同じ部屋に入るだけでも(くしゃみや咳を直接、浴びなくても)感染する危険があります。ウイルス粒子は非常に小さく、一般のマスクによる予防はまず不可能です。麻疹の患者1人から12〜18人が感染します(基本再生産数といいます)。インフルエンザの基本再生産数が1〜3ですから、麻疹の感染力がいかに強大かを理解していただけると思います。麻疹に対する免疫を持っていなければ、ウイルスをもらっても症状が出ないという幸運(不顕性感染)はほとんどなく、ほぼ100%の人が麻疹を発症します。

 麻疹を退ける唯一の方法はワクチンの接種です。麻疹ワクチンの開発は1960年代に始まり、有効性と安全性の改良が重ねられ、日本では1978年に定期接種化されました。当初は1歳時の1回接種でしたが、免疫の獲得が悪い人や免疫が減衰しやすい人が少なからずいることが後に判り、2006年から1歳時と幼稚園年長時の2回接種に改められました。同時期に風疹ワクチンと混合したMRワクチンの使用が開始されています。麻疹排除計画に合わせて、「1歳のお誕生日に麻疹ワクチン」のキャンペーンが始まり、2008〜2013年の5年間は中学一年生と高校三年生にも接種対象が広がりました。これらの施策が功を奏して、麻疹患者数は2009年から急速に減少し、2015年3月に日本は「麻疹が排除状態にある」ことが宣言されました。排除とは、土着のウイルスが3年以上検出されていないことを意味します。麻疹ウイルスが日本の国土から駆逐されたのです! 毎年20〜30万人規模の全国流行が発生し数十人の死亡者が出ていた十数年前(当院の開業前後)を思い返すと、まさに隔世の感があります。日本における麻疹の排除は、ワクチンの接種を強力に推進した医療機関と行政機関の努力の結晶といえるでしょう。

 国内から麻疹が排除されたら、麻疹ワクチンはもはや不要でしょうか? 決してそうではありません。海外には麻疹が蔓延している国がまだ数多くあります。昨今、海外で感染して国内で発症する「輸入例」の報告が増えています(麻疹ウイルスの遺伝子型を調べれば、その出所を知ることができます)。輸入の担い手の多くは、ワクチンを接種していない20〜30代の成人です。昨年、神奈川県内でフィリピン由来の麻疹が小流行しました。冒頭にあげた二つの騒動も典型的な輸入例です。他にも輸入株による散発例や集団発生例が各地で相次いでいます。2010年頃までの日本は、麻疹をすでに排除した国々から「麻疹の輸出国」として非難されていました。しかし、今や輸入国の立場に転じています。地球上から麻疹ウイルスが根絶されないかぎり、麻疹ワクチンを中止することはできません。

 麻疹ワクチンを接種する目的は大きく分けて二つあります。一つは接種した個人を守ること、もう一つは麻疹に罹らないことで流行を阻止して社会全体を守ることです。後者は「集団免疫」の概念に当たります。世の中にはワクチンの恩恵を受けられない人がいます。たとえば、麻疹ワクチンの免疫獲得率は95%以上とされていますが、逆にいうと5%以下の人が免疫を十分に獲得できないことになります(ワクチン不全といいます)。先天性免疫不全の病気をもつ人は、ワクチンを受けることさえできません。抗がん薬やステロイド薬を長期間服用している人も、ワクチンを受けることができません。1歳の誕生日を迎える前の赤ちゃんは、まだ接種対象年齢に達していません。これらの弱者たちを守るために、ワクチンを受けることに支障のない人は、積極的に免疫を獲得していただきたいと思います。麻疹に関して、ワクチン接種率が95%を超えると世の中の流行を阻止できます。自分のばらまいた麻疹ウイルスに感染した赤ちゃんが命を落とす事態になったら … そんな罪作りで悲惨な出来事を起こさないために、対象年齢に達したらできるだけ早くワクチンを接種しましょう。もしも対象年齢をすでに超えてしまっていたとしても、たとえ実費を払ってでもワクチンを接種しましょう。接種したかどうか記録と記憶が定かでない場合も、ワクチンを接種して構いません(血液検査で免疫抗体価を調べてから接種の可否を決める方法もあります)。これは麻疹に限らずワクチンで予防できる病気(VPD)すべてに当てはまります。ワクチンを接種して流行の阻止に貢献することは、公共心の現れであり、社会人としてのマナーを果たしていることになります。


《余話》 MMR(麻疹・風疹・おたふくかぜ)ワクチンは自閉症の原因になるか?
 1998年、英国の医師ウェイクフィールド氏は「MMRワクチンが自閉症の原因になる」ことをLancetという権威ある医学誌に発表しました(後にワクチンに含まれる保存剤のチメロサールが原因と訂正)。この論文の反響は大きく、英国でワクチン接種率が大幅に低下し、麻疹で死亡する子どもが急増しました。しかし後になって、ウェイクフィールド氏がMMR自閉症裁判団体と金銭的な繋がりを持つことが判り、論文が捏造であることも判明しました。2010年、論文は抹消され、ウェイクフィールド氏は医師免許を剥奪されました。この騒動は、ワクチンが麻疹の予防にきわめて有効であることを図らずも証明することになりました。また、ワクチンに含まれるチメロサールに関して、世界保健機構(WHO)は「子どもの神経発達障害との因果関係を示す決定的な証拠はない」と結論づけています。